Volume 1 サメマシマル
第1章意図しない変化
その夜、海辺の都市は静まり返っていた。遠くの建物の灯りが、暗い海面にかすかに反射している。ときおり通り過ぎる車の音だけが、空いた通りに静かに響いていた。街の一角には巨大な研究施設があり、その建物は大きな水族館と直接つながっていた。
メインホールの内部では、冷たい青いネオンライトが空間を照らしていた。そこには二階建てほどの高さがある巨大な水槽があり、その中を二十四匹のホオジロザメがゆっくりと泳いでいた。巨大な体は安定した動きで水を切り裂き、頂点捕食者らしい静かな威圧感を放っていた。
白衣を着た教授が水槽の前に立っていた。彼の手には、小さな瓶が握られている。瓶の中には淡いピンク色の液体が入っていた。
教授は下で泳ぐサメたちを見つめながら、小さくつぶやいた。
「もしこのホオジロザメたちが人工の水族館環境に適応できないのなら……」
彼の口元に薄い笑みが浮かぶ。
「この薬で、無理やり適応させてやる。」
そう言うと、教授は水槽の上部プラットフォームへ続く鉄の階段へ向かった。
しかし床は少し湿っていた。
次の瞬間――
足が滑った。
手から瓶が離れる。
コトン。
瓶は床に落ちたが、割れなかった。
そのまま転がりながら、ゆっくりとプラットフォームの縁へ近づいていく。
教授はそれに気づかないまま、水槽のガラスを拳で叩いた。
ドン。
衝撃が構造全体に伝わる。
その振動で、プラットフォームの端に置かれていた五本の小さな薬瓶がわずかに揺れた。
やがて――
ゆっくりと転がり始めた。
そして手すりを越えて滑り落ちる。
ポチャン。
瓶は割れることなく水面に落ち、そのままゆっくりと水の中へ沈んでいった。
数秒の間、何も起こらなかった。
しかしやがて、水槽の底の方で小さな変化が始まる。
瓶の蓋の隙間から、淡いピンク色の液体が少しずつ水の中へ漏れ出していた。
その色はゆっくりと広がっていく。爆発のようではなく、まるで海底から霧が立ち上るように静かに広がっていった。
透明だった青い水は、少しずつ色を変え始めた。
やがて水槽の中は、濃いピンク色へと染まり始める。
ホオジロザメたちの動きが止まった。
巨大な体が水中で静止する。
まるで水の中の何か異様な変化を感じ取ったかのようだった。
そして次の瞬間。
彼らの動きが変わった。
より整った動き。
より同期した動き。
それを見た教授の表情に、わずかな不安が浮かぶ。
「……何が起きている?」
水面が大きく揺れ始めた。
一匹のサメが突然体をひねり、ものすごい速さで上へと泳ぎ上がる。水しぶきがガラスの内側に強くぶつかった。
教授の脳裏に、巨大な捕食者が水槽を突き破って飛び出す光景がよぎる。
好奇心よりも、恐怖のほうが勝った。
彼は急いで階段を下り、研究室の出口へ向かって歩き出した。
「この実験は失敗だ……明日処理しよう。」
重い鉄の扉が閉まった。
その夜、研究施設の中は再び静かになった。
しかし水槽の中では、変化が続いていた。
翌朝。
教授が実験の結果を確認するために戻ってきたとき、メインホールの扉を開けた瞬間、彼の足は止まった。
床一面に水が広がっていた。
分厚いガラスの破片があちこちに散らばっている。
巨大な水槽の壁は――
内側から破壊されていた。
教授はゆっくりと近づいた。呼吸が重くなる。
水槽の中を見つめる。
そこには――
何もなかった。
一匹も残っていない。
サメの死体も。
血も。
何も。
教授はその場に立ち尽くした。顔は青ざめている。
「どこへ……消えた?」
答えはなかった。
研究室の床に、薄くピンク色に染まった水が滴り落ちる音だけが静かに響いていた。
その頃、外の街では誰も知らなかった。
二十四匹の頂点捕食者が、ガラスの檻から消えたことを。
その朝は、明るく澄みきっていた。
太陽の光が海辺の都市を照らし、海はきらめく青い光に包まれている。波は穏やかに岸へと寄せ、潮の香りが空気に広がっていた。
屋台の店主たちは店を開き始め、ジョギングをする人々が砂浜を走り、監視塔の上ではライフガードが海岸を見渡していた。
その平穏を――
突然の叫び声が破った。
二十四人の少女が海へ向かって走っていた。
彼女たちの動きはどこか不自然だった。
速すぎる。
そして、あまりにも揃いすぎている。
その表情には恐怖と混乱が浮かんでいた。まるで理解できない世界で突然目覚めてしまったかのようだった。
「おい!止めろ!」
「捕まえろ!」
ビーチパトロールの隊員や近くにいた人々が慌てて彼女たちを追いかける。
彼女たちの胸の中では、新しく形成された肺が滑らかに膨らみ、そして縮んでいた。
昨夜、水槽の中に溶け出した薬は、彼女たちのエラを完全に消し去っていた。
その代わりに――
完全な人間の肺が作られていた。
変化は中途半端ではなかった。
完全な書き換えだった。
彼女たちは空気を吸うことができる。
完璧に。
それでも――
本能は海へと引き寄せていた。
窒息するからではない。
ただ、海だけが唯一「知っている場所」だったからだ。
一人の少女が柔らかい砂につまずき、転んだ。
他の少女たちはすぐに振り返り、彼女を助けようとした。
その瞬間――
空から大きな網が落ちてきた。
彼女たちの上に被さる。
少女たちはもがいた。
酸素が足りないからではない。
拘束されることに恐怖を感じていたのだ。
「きつい……!」
「これ、嫌い……!」
「離して……!」
涙が目に浮かぶ。
一人の少女が小さな声でつぶやいた。
「お願い……」
このとき、海岸の水際には一人の青年が立っていた。
濃い青色の髪。
太陽の光の下で、海水のしずくがまだ肌に光っている。
彼の横にはサーフボードが立てかけられていた。
彼はちょうどゴーグルを調整し、波へ向かう準備をしていたところだった。
叫び声を聞いたとき、彼は動きを止めた。
ゆっくりとゴーグルを目から外し、無造作に青い髪の上へ押し上げる。
金色がかった茶色の瞳が、前方の光景を見つめた。
周りの人々とは違い――
彼は叫ばなかった。
慌てもしなかった。
ただ観察していた。
静かに。
網に捕まった二十四人の少女たちが、ほぼ同時に彼のほうへ目を向けた。
次の瞬間――
二十四の視線が、彼に集まる。
彼の目には敵意はなかった。
恐怖もなかった。
ただ静かな観察だけがあった。
青年はゆっくりと人々の輪へ歩いていった。
急ぐ様子もなく、落ち着いた足取りで。
砂が足の下で柔らかく沈む。
人々の輪の外側まで来ると、彼は立ち止まった。
「ねえ。」
低く落ち着いた声だった。
「こんな扱いはよくない。彼女たちを放してあげてくれ。」
網を押さえていた男の一人が彼をにらみつけた。
「なんでお前がそんなこと気にするんだ?
まさか、お前がこいつらの“作った本人”とか言うんじゃないだろうな?」
青い髪の青年はゆっくりと顔を向けた。
声を荒げることもない。
体を構えることもない。
ただ――
静かに男を見た。
ほんの一瞬。
空気が重くなったように感じられた。
男の胸に、説明できない圧迫感が走る。
喉が詰まった。
「お、俺は……ただ聞いただけだ……」
男の手がゆるむ。
周りの人々も同じように手を離した。
網はゆっくりと緩み、地面に落ちた。
少女たちは慎重に網から抜け出し、体についた砂を払った。
一人の少女がためらいながら前へ出る。
「ありがとう……
あなたがいなかったら、私たちは放してもらえませんでした。」
別の少女も静かに言った。
「本当に……ありがとう。」
青年は小さく肩をすくめた。
髪の上に乗せたゴーグルが太陽の光を反射する。
「気にしなくていい。
もう自由だ。」
人々の間でささやきが広がる。
「誰だ、あの男……?」
「落ち着きすぎてないか?」
「なんか変な感じがする……」
しかし彼はすでに体を少し海のほうへ向けていた。
少女たちは海へ向かって歩き出す。
波がゆっくりと岸へ押し寄せる。
ザァ……
ザァ……
白い泡が少女たちの足首に触れる。
彼女たちはさらに海の中へ進んでいった。
その瞬間――
全員が振り返った。
二十四人の視線が、同時に彼へ向く。
青い髪の青年は海岸に立っていた。
髪の上のゴーグル。
腕に立てかけられたサーフボード。
それは言葉のない感謝だった。
そして彼女たちは再び海へ向かった。
水は膝まで。
腰まで。
肩まで。
そして――
海が彼女たちを完全に包み込んだ。
最初は自然に見えた。
まるで家へ帰る生き物のように。
しかし――
水面の下で、異変が起きていた。
彼女たちの肺が激しく収縮した。
エラは開かない。
適応も起きない。
胸に焼けるような苦しさが広がる。
口から泡が漏れた。